経験専門家の成長日誌「足跡」1
今回の閲覧難易度は…★★★★★★★★★★…
【いじめ・自殺願望・恨み】の内容が含まれます。
目次
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・はじめに/前置き
・いじめ・その時思っていたこと
・続いじめ・透ける大人の考え
・そしてひきこもりへ
・おわりに「今」と「これから」
・はじめに
皆さんこんにちはコラム担当のOです。
今回はあしあと0歩目で言っていたハードな方のお話。
なかなかドロドロの事をお話していきます。今悩んでいる方は読んでいて苦しくなってしまうかもしれません。もし読んでいて苦しくなってしまったら自分を守るということで読むことを「止める」ということにも挑戦してみてくださいね。
今回お話していこうと思うのは私がひきこもりになる直前、大人や社会にどんなことを感じていたのか振り返っていきたいと思います。
私がひきこもりになった直接の原因がいじめだったというのは以前お話したのではないかと思います。そのいじめに対して周りの大人はどんな対応をしてくれたのか。
端的に言えば“生贄にされた”と私は理解しています。
皆さんはトロッコ問題というものを知っているでしょうか?多数の人間を助けるために一人を犠牲にしてもいいのかというものです。
ぜひ頭の片隅に置いて読み進めてもらえると面白いかもしれません。
・いじめ・その時思っていたこと
では本編です
きっかけが何であったのかは分かりませんが私は中学生時代いじめっ子グループにいじめられていました、最初のグループ形成に私が失敗したからというのもあるのかもしれません。
日々が経つにつれいじめは激しくなりある日私は屋上に続く階段の踊り場という人目につかないところに連れ出されいじめを受けていました。
そんな時声が聞こえたのか先生が上がってきていじめの現場を目撃したのです。
その時に何を言われたか「そんなところで遊ぶなよ」でした。
私もそのいじめっ子グループの一員で一緒にたむろしていると思われたのです。
正直がっかりでした。最初に不信感というのが沸いたのはこの時だったのではないかと思います。
それからいくらか時が流れていじめっ子グループは増長していき、所謂不良行動を隠さなくなりました。
彼らは授業中や大人がいる場でも隠れず暴れるようになりました。
授業中に奇声を挙げたり教師に悪口を言ったり、物を投げたり…所謂学級崩壊といってもよいレベルだったと思います。
そんな彼らを先生は止めませんでした。
理由は目星がついていて私が中学生だったころ世間ではコンプライアンスについて議論が交わされており、怒るのは良くないという風潮や親御さんからの圧力で“叱る”ということができなかったのではないかと思っています。
叱られない悪童がどうなるかは自明の理で、さらに苛烈さを増していくこととなりました。
お金を奪われたり体に残る傷をつけられたりはありませんでしたが、それ以外のものはやられつくしたと言ってもよいと思います。
また私以外のおとなしい子や、女の子に対してのセクハラ等、大人であれば到底許されないであろう行為が学校内でまかり通っていました。
私以外の生徒も困っている状況で彼らは避けられており孤立気味で体育祭や修学旅行などでの班決めなどで定員割れになる状況がよくありそこに無理やり入れられる形で一緒の班になることが多々ありました。他の班に行こうにも最初のグループ形成に失敗した私はどこにも受け入れてもらえず、ただ憐みの目を向けられるばかりでした。
先生もほかの生徒も私が置かれている状況は認識しており、他の生徒から先生に対して進言があったこともありました。あの時先生に怒ってくれた女の子には今も感謝しています。
しかしそんな進言があっても先生は何もしませんでした。先生の前で胸ぐらをつかまれて投げ飛ばされたり、足首を持たれて引きずり回されたりしても物理的に目をそらして関わろうとしませんでした。
その理由には心当たりがあります。それは“私がいじめられている間は平和になるから”です。
彼らは私のことをいじめることができないと授業を破壊しました。高校受験を控えた中学3年、授業を破壊されるのは多くの生徒にとって害でした。
私が生贄にされたと感じたのはまさにこの中学3年のクラス替えの時で、私は1組になったのですがクラスメイトを見て確信しました。「これは厄介者を寄せ集めたクラスだ」と…
合計3組だったクラスは明らかに1組にいじめっ子や成績が良くない子が集められていて思い過ごしという言葉では片づけられない“大人の思惑”というものが透けて見えるようでした。
・続いじめ・透ける大人の考え
いじめっ子が大集合したことによっていじめはピークに達しました。
私は声は挙げませんでした、「チクったらわかってるだろうな」と脅されていたからです。
しかしせめてもの抵抗として大人の目がある場所でいじめられるように立ち回りました。
それでも先生は良くて「やりすぎるなよ」程度の言葉しかくれず仲裁も話し合いの場も何もありませんでした。これは声を挙げなかった私が悪いのか今でも悩み続けています。
私は学校というものが分からなくなっていました。当初は勉強したり友達を作る場所だと思っていたのだと思います。しかしいじめが始まってからはまさに生き地獄で自分がどう動こうが、他クラスメイトからの報告があっても何もしない先生に絶望し、
“学校というものはいじめられるために行くものであって、私はいじめっ子の機嫌を取ってできるだけ苦しくならないように過ごすところ”に学校という場所の認識が変わりました。
楽しいはずの体育祭の打ち上げで私は残飯が入ったラーメンを食べさせられました。
貸した(奪われた)文房具、ゲームソフトは壊れて帰ってきました。
修学旅行の夕飯のすき焼きは交換という体で肉を全て奪われ春菊鍋になりました。
私にとって普段の勉強もイベント事も何も楽しくなくただ心を無にして過ごしていました。
・そしてひきこもりへ
そうして限界を迎え私がひきこもりになった時、ようやく先生が「話をしたい」と母に連絡を取ってきました。「今まで生贄にしてきて、いまさら何を話すのか」と私は話を拒否しました。
私は中学3年の秋にひきこもりになりましたが、そのあとのフォローは一切ありませんでした。クラスメイトの方が心配して当時主流だったSkypeで話しかけてくれたりしました、そして卒業式前日自宅玄関ドアにクラスメイトの手紙が挟まれており、卒業式には一緒に出たいという物でした。私はその時の選択を後悔し続けていますが、当時はとてもじゃないが行ける状況ではありませんでした。
卒業のその時まで先生サイドからのアプローチはなく、ひきこもっても救われない歪んだ世界(当時)に絶望し“他人に対する不信感というものが私の心に定着していきました”
数年経って例の中学校のHPを見るといじめの少なさをアピールしていました。
「私のいじめを隠蔽しておいて何がいじめ撲滅だ」と…
こういうことを考えるのは間違いであるのでしょうが、学校の校庭で焼身自殺をしようと本当に考えました。しかし外に出ることができず灯油を買えなかったので想像の中で何度も中学校を破壊するイメージを考えて過ごすようになったのです。
・おわりに「今」と「これから」
今でも近所にあるその中学校の前を通ると怒りがこみ上げてきます。
「早く潰れてしまえばいいのに」
こんなことを考えるのが嫌なので私は避けて通っていて、今でも当時の影響は抜けていないんだと認識させられます。
もし当時大人がいじめっ子を叱ることが出来ていたらどうなっていたでしょうか。
もし当時親に報告することが出来ていたらどうなっていたでしょうか。
もし誰かに相談出来ていたらどうなっていたでしょうか。
考えずにはいられません。私はクラスメイトに向けられる悪意をたくさん受け止めました。
しかしそれを吐き出すことは許されませんでした。
だからぜひ私と似ているような状況になっている子がいたら…先生や親がどうにもできないのであれば、こういった窓口に相談してみてもいいかもしれません。
今ひきこもりになっていなくても、今後なりそうならぜひ相談してみてください。
また周りの方も異様な光景に気づいたらその場で行動を起こさなくてかまいません。相談窓口でも頼れる大人でも構いません。相談してあげてください。
当人からすれば止められなくても、「自分の味方がいる」だけでとても救われるから…
今こうやって文章を書くお仕事があるということは今もこういったことはなくなっていないのでしょう。無くすことなんてできないのだと思います。
でも、それにやさしく寄りそうことはできるかもしれません。私はそういった場所と通じて「恨み」が「今悩む子へのギフト」に変わっていったと思っています。
今悩んでいる方は「チクる」のではなく相談してみるということ。
周りに悩んでいる人がいる方は、「かわいそう」と思うならその気持ちを伝えるだけで支えになります。ぜひ言葉を伝えてみてください。本当に救われたから...
今回は恨みつらみの話になってしまったように思いますがここまでにしたいと思います。
逃げることが許されず、皆のための人柱になるのはつらいものでした。
ですがそこから見えてくるものもあって皆さんに伝えられるよう私も頑張っています。
もしこの文章を読んでなにかご自分で役立つものがあると私も出したくない思い出を出したかいがあります。
私も時間がかかりましたがここまで戻ってくることが出来ました。
頑張らなくてもいいです、今を頑張って生きていきましょう…
それでは今回はこの辺で…
次回は通常のあしあととなります、今回よりは軽い形になりますのでお気軽にお越しください。それではまた今度!